オープンキャンパス開催レポートを公開中!

【備忘録 思索の扉】十一回 中世ドイツの笑いの性格(6)~人質がいない「走れメロス」~

2020.01.06

brauhaus sign edited前回に引き続いて、16世紀ドイツの劇詩人ハンス・ザックス(1494年-1576年)の謝肉祭劇を見てみましょう。今回のトピックは、ザックス作品に登場する社会的偏見について。の劇には農民がよく登場しますが、その描写はお世辞にも好意的とは言えないものです。粗野でこす辛く、愚鈍無知で大食らい。こうしたコミカルな農民は、実際の彼らの姿と言うよりも、ザックスを含めて当時の都市の市民たちが農民に対して抱いていた偏見の産物と見てよいです 

 農民を笑いのめした作品の中でも、特に容赦がないのが「フンジング村の馬泥棒ととんまな猫ばば百姓ども」(1553年)です。馬泥棒ウルを捕らえたフンジング村のたち、さっそく奴を縛り首にと息巻くのですが、絞首台があるのは村の麦畑のすぐ近く。収穫前に処刑を行えば近郷の村から野次馬が押し寄せ大事な麦が踏み荒らされのは避けがたい。さりとて麦刈りが終わるまで死刑囚を養えば食い扶持かかる思案の末に彼らは「『1ケ月後に村に戻って来て、おとなしく刑を受ける』と宣誓させた上でウルを自由にしよう」という名案(?)に行き着きます。ウルに異存のあ筈がなし。「こんな阿呆たち、見たこともねえな」と内心呆れつつも、2本指を立てて「必ず戻って来る」と村人たちに誓います。それも、約束の担保にと自分の帽子を差し出してから村を離れるのです。 

 人質がいない『走れメロスという感じですが、もちろウルに、メロスのように行動するつもりはさらさらありません。それどころか彼はこっそり村に舞い戻、家々から着物ヤギを失敬するのです 

 さて1ヵ月後。なかなかウルが戻って来ないのでやきもきしている農夫たちのところに、「ミュンヘンの市場でウルに会ったぞと村人の一人が言って来ます。「ウルからこの上着を買ったんだおらの家には、同じ色の上着がもう1つあるんだがな…と言うのですが、よくよく見てみれば、なんとそれ自分の家にあるはずの着物「あの野郎おらの上着を盗んだ上にこけにしやが」と激怒するうちに一同、だまされたくやしさも手伝ってか、のかんのと互いに殴り合いをおっぱじめます。物陰からちゃっかりこの騒動を見ていのが他ならぬウル。間に自分の帽子を取り返すと、「この通り期限ちゃんと戻って来たぞ。誓いは守った、俺は正直者だからな」と笑います 

 民話の世界には「愚か村」と呼ばれるジャンルがあります。特定の村・集落の住民全員が愚か者で、そろってナンセンスな行動を取るという内容の物語す。この「フンジング村」そうした「愚か村」に属する作品と見ることもできますがここには単なる笑話的要素だけでなく、農民に対する都市民の上から目線透けて見えます 

 こうした蔑視は、教養を身につけて洗練されて来た市民階層の自負心から生まれたものでしょうが、他にもさまざまな要因があったはずです。都市はその地域の経済活動の中心したが、都市に食料を供給していたのは周辺の農村でした。偉そうなことを言っていても、市民たち農民に依存して生きていたのです。その負い目が、ことさら農夫たちを見下す態度につながったのかも知れません。農村部の苦しい生活環境は1525年の農民戦争からもうかがえますが、ザックスの劇は、「百姓たちはそんなに苦労しちゃいない。酒を飲んではソーセージを食、市場で作物を高くふっかけて儲けている」との職人の議論も登場します(詳しくは「六人のこぼし屋」という劇を参照)。これも、農民を搾取しているがゆえあえてその実態を見たがらない住民屈折した気持ちを表しているように見えます 

 このように、一見ただのドタバタ喜劇に見える作品の中当時の社会の複雑な事情がからみ合っているのです1つの笑い実に多くの層から成り立っているのですね。(栗原健 キリスト教学) 

  • 参考藤代幸一・田中道夫訳『ハンス・ザックス謝肉祭劇全集』(高科書店) 

 

一般教育課程 トップへ