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英文学科 助教 田島優子

2014.04.25

こんにちは。私は宮城学院の英文学科でアメリカ文学を担当している田島優子です。

「文学」と聞くと、堅苦しいというイメージを持つ人もいるかもしれません。確かに多くの大学の英文科で教えられている純文学の作品というのは、皆さんが慣れ親しんでいるかもしれない流行りのライトノベルやケータイ恋愛小説(私も大学生のとき読みました。笑)や月9のドラマ等よりも、はるかに複雑に構成されており、解釈も難解です。

私が専門としている19世紀アメリカ文学の小説に関して言うと、ページをひらくと難しい言葉がたくさん並んでいますし、日本語の和訳を渡してみても、古臭い、現実離れしている、漢字が読めない(笑)と思う学生さんはけっこう多いようです。そんな純文学の小説なんて、自分には関係ない!と思ってしまう人は多いかもしれませんね。けれども実は、関係ない、なんてことはないのです。私たちが周囲の人々との関わりの中で毎日をもっと豊かに過ごしていくためには、文学作品を読み、考えるということが最も有益なのではないか、と私は思っているくらいです。

ですから今日は、なぜ文学作品が私たちの日常に深く関わりうるものなのか、またどうやったら文学作品を読むのがもっと楽しくなるのか、そのコツみたいなものについて、少しお話ししたいと思います。

 

突然ですが、皆さんの周りには「変な人」っていますか?

 

きっと何人もの知人の顔が浮かぶのではないでしょうか。ひょっとしてあなた自身が変な人でしょうか…?(笑)
実は、アメリカ文学には「変人」がたくさん登場します。あまりに平凡な人や出来事だけでは、そもそも小説として成立しにくいということは言えるかもしれませんが、それにしてもアメリカ文学に登場する主人公というのは、かなりの変人揃いです。
例えば、最近私が授業で扱った『ウェイクフィールド』(ナサニエル・ホーソーン著)の主人公、ウェイクフィールドは、何の不満もない夫婦生活を送っていたにもかかわらず、ある日突然、家を出てしまいます。そして何をしたかと言うと、家のすぐ近くに宿をとり、そこから20年以上に渡ってひたすら我が家の様子を観察していたというのです。最後には何事もなかったかのように帰宅する、というのもこれまた奇妙な終わり方です。

 

また、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』には、片足を食いちぎられたことを恨み、長年に渡って命をかけて白い鯨を追い求め続ける偏執狂的な船長、エイハブが登場します。
『アブサロム、アブサロム!』(ウィリアム・フォークナー著)に登場するサトペンや『偉大なるギャツビー』(F. スコット・フィッツジェラルド著)のギャツビーは、どちらもアメリカン・ドリームを体現するかのような大きな野望を抱き、手段を選ばずにそれを成就することに邁進し、一度はそれを叶えることに成功します。しかし、この人たちもやっぱりなにか普通の人とは違う「変人」で、時代錯誤的な、おかしなところがあるんですね。それが仇となって、最後にはあっさりと失脚してしまうのです。

アメリカ文学の作家であるエドガー・アラン・ポー(この人は日本でもかなり有名ですよね)は、「はっきりした理由もないのに、してはいけないことをどうしてもせずにはいられない」という精神状態、つまり倒錯的な行為に走らせる精神のことを“perverseness”と呼びました。日本語では「天邪鬼」あるいは「つむじ曲がり」と言います。ポーは作品でも「天邪鬼」な登場人物を多く描いているのですが、例えば「黒猫」や「告げ口心臓」では、主人公たちは完全犯罪を成し遂げたにもかかわらず、よせばいいのに自分が犯人であることをばらすような不可解な行動をとり、そのせいで捕まってしまうんですね。

 

こんなに変人だらけとなると、ますますアメリカ文学が自分からは遠い存在に思えてしまったでしょうか?
ところが、こんな奇妙な行動に走る登場人物たちを見て、受講生の中には「この人の気持ち、分かる気がする!」と言う学生さんもいるのです。例えば先ほど述べた「やってはいけないことをやってみたくなる」という「天邪鬼」な精神、なんとなく分かる気もしますよね。
最初に例をあげた『ウェイクフィールド』についても、よくよく作品を読んでみると、彼には「自分がいなくなった後の世界が見たい」という欲求があったということが書いてあります。すなわち、周りの人が困っているのを見ることを通して自分の存在価値を確認したかったのだ、と考えられます。
本当にこんな行動をするかどうかは別として、このように複雑に構成された小説内容をじっくりと読み解いて、その動機を探していくと、ウェイクフィールドの行為は、実はそれほど不可解ではないような気もしてくるのです。

 

つまり、ここで例にあげた登場人物たちは確かに超「変人」なのですが、それらは芸術的に、非常に極端な形で描かれているだけであって、実は私たちも彼らと同じような倒錯的な精神を持っているのではないか、作品を読んでいるとそう気づかされる瞬間がある、ということです。彼らの持つ奇妙さや天邪鬼さというのは、いわば普遍的に私たちが持ちうる精神状態なのだと言えるかもしれません。

 

こうやって見ていくと、理解不能に思われた小説の登場人物たちが、だんだん身近に感じられてきませんか? 私はこういう登場人物たちのことが「愛すべき変人たち」であると思えてならないのですが・・・。
授業ではこういうおかしな人たちについて、「なぜこの人はこういう行動を取るのだろう?」とか「この人は一見すると嫌な人だけれど、他の角度から見てみたらどうだろう?」と、いろんな見地から解釈することを試みます。

 

このように、文学作品に登場する人々について多角的に考え、それぞれの立場を理解する契機を持つということは、実は自分の周りの人々(「変人」も含めて!)に対して深く意識を傾け、理解しようとすることにもつながっていくように思うんですね。
またこれは、他人についてだけでなく、自分自身についても、これまで気づいていなかったことを意識化し、考えなおすということにつながっていきます。
このように、周りにいる人、一人ひとりの持つ魅力がもっとよく見えるようになること、自分自身に向き合うことができること、これは文学作品を読むことの大きな魅力の一つであるとも言えるでしょう。

(ゼミ終了後、学生さんたちと)

 

さて、私のエッセイもここらで終わりにしますが、アメリカ文学をやっている私の密かな楽しみは、自分の知り合い(にそっくりな人)を小説の登場人物に見つけることです。けっこういるんですよね、これが。それから、自分の好きな作家が生前過ごしていた場所を自分でも実際に訪れてみて、ここであの作品の着想を得たのかな、なんて空想にふけることができるのも、文学研究者の楽しみの一つかなと思います。ここでは実際に私が一年ほど前にアメリカのコンコードやセイレムという小さい町を訪れたときに撮った写真を載せておこうと思います。(下のフォトギャラリーにて)

 

以上、これを読んで少しでもアメリカ文学の魅力を感じ取ってくれた人がいたならば――
今度は宮城学院の教室でお会いできる日を、楽しみにお待ちしています!

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