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日本文学科准教授 李敬淑

2016.01.27

宮城学院にやってきてそろそろ2年が経とうとしています。韓国のソウル生まれ、ソウル育ちで、留学のため日本にやってきたのは6年前。多くの事を学び、日々成長している新米教員です。皆さん、どうぞ宜しくお願い致します。

さて、私が担当している科目の話をしてみましょう。私の専門は、日本映画史です。授業では主に日本の映画を題材にして日本人が何を映画にしてきたか、そしてそこに含まれている意味や社会歴史的な背景はいかなるものなのかについて勉強しています。映画と言ってもそのジャンルやテーマは多岐にわたり、授業ではよくあるメロドラマから時代劇まで、そして任侠(やくざ)映画からピンク映画、怪獣映画、特撮映画まで本当に本当に色んな映画を観て、感じて、語っています。「名前は聞いたことあるけど、実際に観たのはこれが初めて!」「日本の映画が110年間こんなに目まぐるしく発展してきたとは!」「オタク文化だと思い込んでいたけど、こんなに奥深い世界があるなんて目から鱗!」という受講生からの感想が嬉しく、とにかく学生さんたちと毎回盛り上がっています。(笑)

とはいっても、「映画を勉強する」ということはただただ楽しいだけではありません。それはなぜでしょう。最近とみに考えていることを申し上げますと、映画作品を後世に残す意義があるとすれば、それは映画が20世紀の人類の愚かしさをこれ以上になく克明に記録しているからです。むろん人類は20世紀だけでなくそれ以前もそれ以降もそれどころか現在進行形でますます愚かでありつづけていますが(人類の皆さん、すみません)、しかしそれでも20世紀に人類が犯した愚かしさはさすがに度を超えていたのではないかと思います。そのなかでもナチス・ドイツの台頭を許したのは間違いなく人類史上最大の過ちの一つで、あまりにも常軌を逸しているがためにその異常性に対する我々の感性はほとんど麻痺しかかっていますが、これは絶対にありえてはならなかった事態だし、今後も絶対にあってはならないことです。

20世紀に精神分析と映画とファシズムの隆盛が重なったのは必然だったろうと思います。とりわけ映画はファシズムを強力に後押しし、同時にその蛮行を記録してもきました。20世紀に二度の世界大戦を看過するどころか積極的に推し進めてきた映画が、21世紀になお生き延びることを許されたのはチャップリンの存在があったからだ、と述べたのは確か四方田犬彦だったと思いますが、むろんチャップリンの映画も『独裁者』であれ『モダン・タイムス』であれ、ある種のプロパガンダたらざるをえません。映像が持っている恐るべき力を21世紀の人類は正しく恐れ続けなければならないし、それは22世紀になっても23世紀になっても30世紀になっても同じことです。

繰り返しになりますが、我々が何か具体的な映画作品をさしあたり擁護し、古典としての延命を企図しなければならないのだとすれば、それは映画が人類の愚かしさの生き証人として存在しているからです。ということを考えますと、やっぱり映画を「ただ楽しく観ればいいもの」としてしまうのは、ちょっともったいないかもしれませんね。

このように「映画の楽しさ」と「映画の重み」とをバランスよく考えていくことにより、きっと日本の文化や歴史について改めて学ぶこと、新しく感じることが出来ると思います。みなさんも宮城学院女子大学の日本文学科でその「改めて学び、新しく感じる」ことへの挑戦を一緒にしてみませんか。私はみなさんと過ごす素晴らしい毎日を楽しみにしていますよ。

李ゼミ第一期生たちとのひと時。私の誇り高き長女たちです。

一人だけ、デカイ体でジャンプの下手な人がいます。それが私です。(笑)
2015年度新入生たちとの文学研修旅行でのワンカット

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